江戸の水辺に想いを寄せて/心の澱を浚いながら♪

龍を見た男/藤原周平/新潮文庫


残暑が心身に堪えるこの頃,いかがお過ごしでしょうか.

都内はまだ馴染んでいない処ですが,脚で巡る街並みには,どこに行っても河や橋に出逢うことができます.江戸がまさにウオーターフロントであり,水の涼しげな風景が私たちをより一層心地よく感じさせてくれます.
 海に近い水辺には浜どりが舞い,ほのかに潮の香りを漂わせ,つい自身の幼心を思い出しそうです.

 今見ている風景とは様変わりしていることは,いうまでもありませんが,むかしの面影が残っているように思えてきます.


先日偶然目にした江戸時代後期に撮られたという写真も風景はともかく,人々の立ち振る舞いは,どことなく今と変わりないように感じられました.
きっと今もむかしも物理的な環境に関する印象以外は,変わらぬものがたくさんあるのかもしれませんね. 

 

さて今回は,断捨離中に,「はてこの本はいつ買ったのか読んだかしらと,自分のものではないのでは?いつ買ったかな?」など思い出せず,なぜかここにある本をなんともまか不思議に感じて,まずはこの書と交わることとした一冊を紹介いたします♪
 作者もこれまでなじみがなかったので,とりあえず書評から読み進めることとしてみました.書評によると,不思議なことに時代ものの創作物なのに情景が江戸の町を忠実に著しているらしい,ということで興味を惹かれました.

 江戸の町を舞台とした時代もののドラマでは,河と橋など水辺がよく登場し,そこにはこれから始まる出逢いや別れを彷彿させるものがあるように見受けられます.

 この書にも出逢いや別れ,人生の転機の情景描写が各オムニバスで登場しています.


 はじめに出てくるのは兄と妹の別れと再会です.お互いの心のすれ違いというものは,避けられぬ時もありますが.もしチャンスがあれば修復したい気持ちは誰しも持つ可能性があるでしょう.兄と妹は橋で別れ,橋の近くで再会し,橋のたもとで再び訪れる別れの危機を乗り越えます.
 橋の下の川面が全てお見通しのように感じられるクライマックスでした.


次は幼なじみとの別れと出会い.

 川を綺麗にする仕事を託された老祖父と孫娘.孫娘と幼なじみの若旦那はある時,見知らぬ賊が川沿いの老祖父宅から飛び出すのを目の当たりにします.その直前に商家で,主人が殺され,金品を奪われていました.老祖父宅からその財布が見つかり,老祖父が下手人として捕われてしまいます.

 状況を知っていた若旦那は幼なじみを勇気づけますが,結局番所へ届け出られずに,幼なじみの消息が途絶えていました.偶然参加した寄り合いで幼なじみを見かけ,親交を深めようとしますが・・・.これも定めのように,変わらぬ穏やかな川が切なく出来事を浄化しているようです.

 

 盗っ人と子どもが欲しい岡っ引き夫婦,赤ちゃんを反故にしている夫婦,言い過ぎかもしれないけれど,それぞれの思いが一つになって一つの大切な命を見事に生かしていこうとする救いのある物語です.このことが良いのかどうか理性的には判断できませんが,もし許されるならこの結果は心を豊かにさせてくれる情愛に満ちあふれている世界だろうと思います.

 

現代においても通ずる様々な生きづらさがこの書のテーマのように感じられます.私には自分と向き合う良い機会でありました.そこには別れや哀しみ,驚きや怒りなど情念が心を惹きつけるものがあり,私は読みながら作中人物やたぶん周りでその風景を見守る町人として,登場人物たちの気持ちを一緒になって共有し共感させていただきました.一話読み終わる度に心の澱を洗い流したような気分となりました.


本書の多様なテーマや登場人物にはそれぞれのキーとなる河や橋,海など水辺の風景があるように感じられます.
何気なく読めばそれまでなのですが、少し前に目にした東京の川面を思い浮かべるとそこに主人公がいるように思えてくるのです.そして登場人物のパッションさえ感じてしまうほどです.

 

稿を終える前にタイトル作品を紹介いたしましょう♪

タイトルの龍は龍神様です.

この本でたぶんもっと渾身の作と感じられるものです.

 自分の信念を胸に,人や神に頼ることもなく,なんでもこなし上手くいっていた主人公は,人が良くて頼りなさの目立つ甥っ子を預かり,漁師として育てようとします.次第に成長する甥っ子には将来の契りを許す娘もおりました.

ある時,一緒に漁に出た甥っ子は不意に流された櫂を追い求め,波の中へ飛び出し,そして帰らぬ者となります.

主人公の心は大きく揺らぎます.自分のしたこと,しなかったことの全てを嘆き苦しみます.

信心深い妻に連れられて安全祈願にご利益のある寺社詣りをしますが,なかなか喪の作業も進みません.

 知人に揶揄われてしまい,ついに沖へ舟を出し漁に向かいます.

 大漁に浮かれ帰路に着こうとする時に,雲行きが急に怪しくなり,濃い霧に遮られてしまいます.そのとき死の恐怖に駆られてしまい,思わず龍神様に命乞いをするのです.すると,海面から龍が昇り,その後に行く手に光りが見え,主人公の目には涙が溢れていたというお話しです.

 人の心を大きく揺らし,恐怖や哀しみだけでなく,喜びや安堵をもたらす自然のパワーには何か底知れぬ驚異を感じさせるものがあります.海を知り尽くしていると思っていた主人公が甥っ子を飲み込んだ海について,「まだ知らない海の顔があった」と感じるシーンはとても印象的です.
私は書評に操られているのかもしれませんが,この著者の世界にどっぷりと引き込まれてしまいました.

 目の前から消え去る前に,素敵な出会いと気づきがあった本書に感謝しています.

 ご興味を持った方はぜひご一読を!